【程遠く】





ふ、と長次は何気なく書類の上にきちんと置かれている自分の手を見た。
年齢の割りに大柄なその身体に見合った、無骨な手、所々傷もあり、軟らかいなどという表現には程遠い、ざらついた肌にマメで硬く慣らされたそれはいつも通りの自分の手のひらだった。

「先輩、どうかしましたか?」
様子が変だと思ったのだろう、カウンター越しに本を抱えながら不思議そうに雷蔵がこちらを見ている。
なんでもないと首を一度だけ横に振ると、彼はそうですか、と素直に頷いて作業に戻った、それを見て長次も自分がするべき仕事をこなす、貸し出し期限が過ぎ、急ぎ返却を要する生徒のチェックだ、いつも通り友人の名前が二人ほど上がっている、彼らがここまで返却を滞納する気が知れない。

今日は天気がよく、外に出て自習する者が多い、図書室の利用者は当然の如くいつもより少なく、現在も奥のほうにちらりと生徒が数名見えただけでやはり閑散としている、生徒の貸し出しや返却作業に手間がかからない分、作業は随分と捗っていた。
もはや延滞の常連である二人の名前を見ながらむうと珍しく客観的にも解るほど顔をしかめているといつの間にかカウンターの内側に来ていた雷蔵がそのリストを脇から盗み見ていた。
「あ、またですか、道理で先輩がしかめ面をしてると思いました」
長次のしかめ面の理由をリストから読み取って納得したのだろう、苦笑している、長次は目で仕事は終わったのか、と訊ねた。
「はい、棚に戻せる本は一通り戻してきました」

昨年、新しく図書委員に入り、そして半年ほど仕事内容を知らなかったにしては信じられないくらい手馴れた仕事ぶりだ、最初の半年、作業内容を教えられなかった点については長次も非があるので多少のミスは許そうと思っていたが、雷蔵にそんな気配は見られなかった、おそらくもう既に図書室内にある本の一冊一冊の位置も全て把握してしまっているだろう。
昨年から二年続いて同じ当番のメンバーと言うのもあり、自分のおかげだと言いたいわけでは無いが――むしろ逆に自分の所為で彼が仕事を覚えられなかったのだから胸を張れる訳など無い――長次は雷蔵の仕事ぶりを誇らしく思い、僅かに微笑む。
普段無表情で、たとえ感情があったにせよそれを表に出すことの極端に少ない長次にしてはそれは最大の笑みであるのだが、きっと雷蔵は気付かないのだろう、同室の小平太でさえ持ち前の野生の勘に頼りながらも最近ようやくすぐ解るようになった程にその動きは微細なのだ。
「……」
雷蔵がじっと見ているのでどうしたのかやはり視線で問うてみる。

長次が普段まず視線でものを言うのは、言葉を発するのが面倒なわけではなく、適切な言葉を思いつくのに時間がかかるのだ、ようやく思いついて口にしたはいいが、話題に乗り遅れるのは目に見えている。
それを考えたら無言のまま目で訴えたほうがずっと早い、気付かれないときもあるがそれでも構わなかった、例え全ての言葉を駆使してごり押ししてまでも伝えたい意見と言うのは少ない。
特に、自分の意見に執着している訳では無いので通じる事が無くともあっさりと自分の意見を捨てる事ができた、かといって自己主張がないわけでもなく、押し通すほどの事があれば多少無理をしてでも押し通していた。
もっとも長次の場合、他者に伝えるはずの感情を作るのが不器用なあまり、その適切な言葉、と言うのを相手を尊重しながら慎重に考えすぎてしまっているのだ、それさえ多少譲歩すれば一般の会話と同じスピードで話せるのだが本人は全く気付いてはいなかった。

「あ、いえ…なんでもないです」
長次にじいと不思議そうに見られていた事に気づいたのか、両手を前に広げて首と一緒に横に振る、その慌てぶりが可愛らしく、面白かった。


思わず手を伸ばして長次は雷蔵の頭に乗せる、その動作は半年ほど前から続いている、長次にしては当たり前の動作で、手は僅かに彼の頭より大きく、少し余っていたがいつも通りに頭部の丸みに合わせて這わし、そして軽く撫ぜた。
雷蔵のふわふわとした髪は意外にもごわついていて、彼の人格そのものをあらわしてるようにも感じた。
常に笑顔でその優柔不断振りから柔和な印象をもたれる事が多い彼だが、意外にも頑固な一面がある、
さらにこれは実際目で見て知った事だが、大雑把な性格が由来してか体術を初めとする武術の動きは大胆で強引、そして豪快だった、特に体術では容赦なくクラスメイトを打ちのめしていたのを見た事がある。
一緒に見ていた伊作が「とても悩みがあるようには見えない」となぜか雷蔵ではなく長次を見ながら呟いていたが、あれほどのキレのある動きならまず悩みなどないだろう、たとえあったとしても相手を打ちのめした時点できっと吹き飛んでいるはずだ、と軽く納得し、隣で伊作が溜息をついていた。


昨年のおおよそ半年、長次は雷蔵に関わろうとはしなかった、一つは雷蔵が苦手としているからともう一つはそんな彼にどう接すれば良いか解らなかったのだ、知らぬままに同時に読み進めていたあの物語が無ければ今も疎遠なままだっただろう。
思えばあの時、雷蔵の頭を撫ぜたのがきっかけで、以来、同じ委員会のほかの後輩たちの頭も撫ぜるようになった。
こんな不恰好な手ではあるが、それでも撫ぜられると嬉しいのか、真っ先に撫ぜ始めた雷蔵がホッとした笑顔になるのだ、そのうち後輩にもするようになったのだが、撫ぜるたび、雷蔵と同く大半が安心したような笑顔になる、例外は「気色悪い」と彼ららしく皮肉ったい組の友人二人ぐらいだ。
その例外はともかく、長次にはその撫ぜた全員が笑顔になる理由がわからず不思議でたまらなかった。
しかし誰に聞いてもきっと答えに困るのだろうと、第一口下手な自分がそれを上手く質問できるのかもわからず、まだ誰にも話していなかった。


「あのーすいません…」
はっと我に返るといつの間にか手に雷蔵の髪の感触は無く、珍しく考え事にふけって周囲を見渡す事を怠った自分に叱咤して改めて周りを見回すと、この良い天気に先ほどから図書室にいる変わり者の生徒のうちの一人がカウンターの前に困ったように立っていた。
制服は一年生特有のイゲタ模様で、両手で胸に抱えているのは恐らく借りるであろう本。
雷蔵はとうに彼の貸し出し作業を始めていた、一年生は初めて図書室を利用するらしく、懇切丁寧に利用法を教えていた。

「ええと、じゃあ伊賀崎くん、返却は二週間後だからね」
「はい、ありがとうございます」
一年生はまだ学園に慣れていない所為もあり、こういう規則には基本的に素直に従う、よって雷蔵もそれほど返却について厳しく言わず、一年生を見送るためカウンターを出て手を繋いで図書室の出入り口へ歩いていく。
一人カウンターに残った長次がカウンターの上を見ると、仕舞う仕事を後回しにして一年生の面倒を優先した雷蔵が置いていった貸し出しカードがまだ乗っていた、ひょいと手にして見ると数年ぶりに貸し出される、マイナーな本で一年生が借りるにしては少々難しいものだった、はて、あの子が解るのだろうかと長次はわずかに首をかしげる。
「生物の毒とその解毒についてですね、一年生なのにすごい頭の良い子なんですね」
一年生を図書室の出口まで丁寧に見送った雷蔵が戻ってくる、顔を上げたそのついでに図書室内を見渡すといよいよもって誰もいなくなっていた、先ほどまでもう数人いたはずだが、本を借りる事無く、あの一年生より前に退室していたらしい。


「…やっぱり何かあったんじゃないんですか?僕でよかったら聞きますけど…」
貸し出しカードをそのまま手にしていた長次がしかるべき場所へ移動し、雷蔵は長次に仕事をさせてしまった事に対して申し訳なさそうに何度も謝った、やがてその謝罪攻撃も止み、しばらく雷蔵の言葉は途切れたが、意を決したように不安そうに問いただしてきた。
珍しく思考が飛び、その結果、いつまでも雷蔵の頭を撫ぜていた先ほどまでの行動の所為でいよいよもって不審に思われたらしい、ここで否定してもいつかまた何かがきっかけで疑問が蒸し返されそうな気がしたので長次はまだ誰にも聞いた事がないその不思議を、事の発端である雷蔵に聞いてみようと言葉にする。
ただし、自分自身もよく納得していないそれを、はたして彼に上手く伝えられるかどうか不安だった、立てるべき言葉を優先し、口を開く。
「…なぜ、笑う?」

「……」
やはり上手く伝わらなかったのか、思ったとおり目を数度瞬きさせながら困ったように眉をひそめ、言葉に詰っている雷蔵に長次は言葉が足りなかったかと補足する言葉を頭の中でいくつか選ぶ。
「俺が撫でると…」
「ああ」
途中で雷蔵はそれまでの困り顔をぱっと笑顔に変えてうなづき、長次の言いたい事を理解する。
途中でさえぎられたものの実はその後の言葉を考えていなかったので僅かにそれで通じてホッとした。
「それはですね…」
質問の答えとなる言葉を探しているのだろう、どうも上手い表現が思いつかないようで雷蔵は口元に軽く作った握りこぶしを当てて考えている。よく見かける、彼が悩んでいる時の癖だ、ここまでこの癖が似合う人物を長次は知らない。

「ええと、褒められるって、やっぱり嬉しいです、それに先輩は言葉が少ない分、行動で示されるとわかりやすいので…みんなこれでいいんだと安心するんですよ」
「…そうか」
言葉を選びながら慎重に答える雷蔵の視線は上を彷徨い、キョロキョロと辺りを見回している、そこに何かあるのかと思いそうになるが、実際はただの天井があるだけで何も無く、ただ彼が無意識にそうしているようだ。
確かに、下級生を撫でる前は遠巻きにされていたが、最近はその距離が少し短くなった気がする。
と言っても遠巻きには変わりなく、長次はそれでもいいと気にも留めないでいたので確かな感覚ではなかったが、これで後輩たちが揃って笑顔になる理由に納得した、付き合いの長い友人ではないのだから長次が何を考えているか解るはずもない、彼らが上手く長次と意思疎通できないと不安になるのは当たり前だ、しかしそれに応えるように頭を撫ぜれば、撫ぜられた者達はそれが良い事なのだと理解でき、安心するだろう。
とすると、雷蔵もまた、こちらの意図が汲み取れず、撫ぜるたびに意図を知り、安心して笑顔になっているのだろうか?


「あとは…先輩の手は、優しくて、暖かいからです」
長次の思惑にも気づかず、これは僕だけかもしれませんが、と少しはにかみながら雷蔵は答えた、照れているのかやや俯き加減で長次と全く目をあわそうとしない、合わせにくいのだろう。
こんな厳しい手が優しいのか、と長次は疑って思わず自分の手を見るが節の出具合も爪の長さも小さな傷も、先ほどと変わらない手のままだった、優しさなどかけらも見えない。
いぶかしんでいるとそれを見かねた雷蔵がフォローするように言葉を繋げた。
「あ、えっと…少なくとも撫でてくださるときは優しくて、僕は好きですよ」
「……」
雷蔵のたった一言は些細なものだったが、長次はすんなりとそういうものかと納得した。
たった一言でそう思えるなど現金極まりないとは思うが、やはり嬉しい事に違いは無い。

後輩たちは頭を撫ぜられる度、こんな気持ちでいたのだろうか、と思いながら長次はその気持ちを確認する。これほど安堵する効果を与えられるなら、いかつい手で申し訳ないが続けてみようかとぼんやりと思った。
「ありがとう」
そうして、長次はまた誰にもわからない笑顔を作る、解りきっている事だがきっと雷蔵には伝わらないだろう、本格的に頬の筋肉を上に動かす練習をしようかと一瞬頭をよぎった。

雷蔵はと言うと、先の発言で更に照れ、顔を真っ赤にして俯いていたが、長次のその言葉を聞き、再び長次の顔をじっと見つめた、長次が不思議に思い雷蔵の顔を窺うと、雷蔵はまだ赤みの残る頬で核心を得たように、満面の、それこそ長次より何倍も解りやすい朗らかな笑顔を作った。












「やっぱり、さっきのあれ、笑っていたんですね」


















思わぬ指摘に長次は少しだけ眼を見開いて驚く、雷蔵は間違ってるとは微塵も思っていないようでニコニコと誇らしげに笑っている、驚いた顔を見ても何も指摘しないところを見るとどうやら笑顔はわかるがそれ以外はまだよく把握できていないようだ。
思い返せばここ最近、他の後輩と違い、雷蔵が長次に言葉で説明を求めてくる事が極端に少なくなっていた、まだ簡単なものだけではあるがそれだけ長次の感情を把握できるようになっていたのだろう、結果言葉要らずのまま仕事をこなせるようにいつの間にかなっていたのだ。
こんなにも些細な変化に気付くようになった雷蔵が他の後輩達と同じく、撫ぜられ、安心して笑うはずがないと長次は先ほどの疑問の答えを得た。


しかし、それならばなぜ彼は笑うのだろうか?


「…どうか、しましたか?」


無表情であった長次の疑問に感覚的に気付いたのだろう、先ほどとは違い不安そうにこちらを見つめてくる彼に相談など、できるはずがなかった。















一言
長次視点にしたらすごく繊細な子に…なってしまった気がする…
「響く〜」の少し後位なのですが…なんだこのいちゃつきっぷり。






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