生まれ日に依る


「今日が、生まれ日らしい」

 長次が相変わらず淡々と呟いたその言葉の意味を正しく理解するために一瞬の誤差が生じ、直後、雷蔵は閉じかけていた瞳を無理矢理抉じ開けた。
「──え?」
 気持ち的には、声と同時に上掛けを払って飛び起きていたのだが、実際そうすることが適わなかったのは、一つ布団の中、同様に横になる長次の両腕と足が雷蔵の背と足に絡み付いていたから──よりも、風呂上りからつい先程までの長ーい時間、2人でしかできない方法でそりゃもうこれ以上なく仲良く過ごした後で、指一本動かすのも億劫なまでの疲労が全身を襲っていたからだった。
 しかし今の長次の独白は聞き流してしまいたくはなかった。
 ちゃんと顔を見て訊ねたかったから何とか起き上がろうと手足を動かすのだが、雷蔵の背に回す両腕に力を込めることで長次はそれを制し、汗が引きかけてひんやりと湿る彼の背をゆっくりと撫でた。
 ただ事実を述べるための、抑揚のない声が続く。
「…祖父が」
 過去に起こった出来事の詳細を知りたかったら中在家のに聞け、と近隣でも有名なくらい几帳面な人で、どこに出掛けようが体調が悪くて寝込もうが記さなければ一日が終わらないと豪語する彼の日記は、言葉通り一日も欠かされることなく何十年分にも及ぶという。
 幼い頃、たまたま目にする機会があった一冊の日記の中に、自分の生まれ日が記されていた、と。
 そして長次は、そんなどうということのない日付をなぜ今まで覚えていたのか判らない、と釈然としない様子で首を傾げた。
 記憶力は、まあ悪くはない方だろうと、長次は自分に対しても冷静に分析する。しかも不要と判断した事柄はあっさり忘却できる、なかなか機能的な記憶力だ。だからこそ、大して印象的でもなかった日付を、今だに忘れていないことが不思議でならなかった。

 疲労に負けたのか拘束する腕の力に負けたのかは定かでないが、起き上がることを諦め、長次の顔から視線を外すことなくじっと話を聞いていた雷蔵が、またもぞもぞし出したことに気づいて、長次は苦笑交じりに口角を上げた。
 長次が、自分の中では脈絡が繋がっているのだが、他人にとっては唐突でしかない呟きを漏らすのは普段から良くあることだ。雷蔵はそんなものからでも長次の心の機微を良く汲み取って、長次の人となりに詳しくない下級生などと接する時には的確にフォローしてくれる。それをとてもありがたく思っているのは事実だが、こんな時間にこんな状態の彼を悩ませるつもりなどない。偶然日付が重なったことからふと頭に過ぎっただけの、どうということもない話だ。
「…それだけのことだ」
 だから、ぽん、ぽん、とあやすように軽く背でリズムを取り、その一言で終わりにしたつもりだった。

「──大切な日を、教えてくださってありがとうございます」

 雷蔵の、ほんの少し上擦った声が聞こえるまでは。
 常とは微妙に異なる声音に釣られるように視線を落とせば、雷蔵は何とも言えない柔らかな表情で長次を見上げていた。
 一癖も二癖もある後輩たちが口を揃えて優しいと評する雷蔵である、彼の穏やかな笑顔など今までに幾らでも見てきた。一番気に入っている笑顔は、他の誰に見せてやろうとすら思わない。
 だが今の彼の表情は、記憶にあるどれとも違う。
「…不破?」
「ありがとうございます」

 ──この日に生まれてくださって。
 ──出会ってくださって。
 ──僕の前に立ってくださって。
 今のあなたの、何もかものはじまりの日に──知る限りの言葉を駆使したとしても、きっと伝え切ることなどできないから、気持ちに最も近いたった一言に、余りに多くの、それだけでは足りもしない意味を込めて。

 とても柔らかに嬉しそうな笑みは、けれどどこか泣き出す寸前の顔にも見えて、長次の胸をざわめかせる。
 その時、長次の脳裏にぽんと一つの仮定が生まれた。至極当たり前の顔をして現れたそれを、念の為に脳内で復唱してみた。
(…そうか)
 効果は絶大だった。一層強く自身で納得することができた長次は、雷蔵の耳元に口を寄せて、いつも通りの声量で、しかしはっきりと囁いた。
 祖父の日記の一文でちらと目にした自分の生まれ日など、覚えていたところで何の役にも立たない。そんな、忘れてしまっても全く困ることのない日を今まで覚えていたのは──。

「お前に伝えたかったからだ」

 雷蔵の大きくて円い目が、更に見開かれる。
「…僕が、覚えていても良いんですか…?」
 雷蔵の声に混ざるわずかな震えを聞き取って、長次は片手を持ち上げ、彼の頭を撫でた。項の辺りまで何度かゆっくり往復すると、気分も多少は落ち着くのだろう、雷蔵は目許を綻ばせた。
「…どうでもいい日だ」
 一割も一分も譲ることなく、長次はそう思う。雷蔵にとってもこんな日を覚えるくらいなら、テキストの単語や武器の名を頭に入れた方が余程有益だろう、とも思う。
 だが。
「どうでもいい日だが…お前が覚えていてくれるのなら、嬉しいと思った」
「──もう、何を言われても、忘れて差し上げられません」
「…忘れなくていい」
「ずっと、覚えてます」
「ああ」
 鼻の頭がくっつく距離で密やかに笑い合う。内証を共有して、渡して、渡された悪童たちの顔が、そこにあった。


「先輩に、良くお似合いの季節にお生まれですね」
 しばらくしてから雷蔵が言った。
 彼の嬉しそうな響きは長次にも嬉しく聞こえるものだが、言われた内容については、さて、と視線が彷徨う。
 今頃は、山河が紅葉に彩られ華やかな一方、あたたかな季節の終わりをも意味する。春のように霞まない空は何を隠すこともできずに、迎え来る冬を早々と想起させる。
 生憎、自分は紅葉が作る華やかさなど持ち合わせてはいない。ただ冬が近づく頃特有の乾いた、寒々しい空気感は当て嵌まるかも知れない。
 つらつらと考えに耽ってしまった長次を見て、雷蔵は笑みを深くした。
(…思索されているお顔も、勿論好きですけどね)
 知識も語彙も見識も深い長次は、過信にも卑下にも寄らずに、自分自身を客観的に判断することができる。だが総じて余り良い評価を下さない。自己偏愛が極度に強くなければ当然の傾向かも知れないが、それを時々、雷蔵がもどかしく思ってしまうのも事実だ。

「…先輩、ぎゅってしてください」
 雷蔵の突然の申し出を、長次はどう思ったろう。
 口にしてしまってから、こんなタイミングで言うべきではなかったか、今までの話と関係がなさ過ぎると思われたろうか等々、頭の中を自問ばかりがグルグルと巡ったが、すぐに両腕が背と腰に回され、ぎゅうと強く抱きしめられたので、ホッと安堵することができた。
 もう少しこの全身のダルさが軽かったなら、自分だって彼の背に手を回してぎゅうとし返したかったのだが、ちょっとばかり無理そうなので為されるがまま、長次の体に納まった。
 鍛えている互いの体はそれなりに硬くて、隙間もできないくらい押しつけられた胸は苦しいくらいで、その胸から直接感じられる相手の鼓動が、そこまで自分を拘束してくれる腕の力強さが嬉しくて──どうしようもないくらい、嬉しくて。
(…ほら、やっぱり)
 雷蔵は、長次の鎖骨の辺りに頬をぺたっと貼り付けるように摺り寄せた。

 緩むことなど微塵も許さぬ一本の糸を凛と張る冬を双眼で見据え、纏った彩を一枚ずつ自ら削ぎ落とす静虚な季節。高く突き抜けるほどに混じりけのない空は春のように柔らかでなく、けれど潔いまでに清しい陽光の分け与えるあたたかさを内包していて、まるで。

「──この腕みたいな季節です」
 何を根拠にそんな表現をするのか、ヒントが少なすぎて長次には見当もつかない。言葉もなく雷蔵を見つめるしかなかったが、この場で具体的な内容を問うのは無粋に思えた。
 何しろ「この腕」の中の雷蔵は、とても嬉しそうに笑んでいるからだ。
「…そうか」
「はい」
 だから多分、それが答えなのだろう。



2008.11.18



室町設定で誕生日の話はやっぱり難しいですね^^;
長次の生まれ日については当然のことながら、具体的な日付を決めたりはしておりません。



もとり様より、長次が生まれたお祝い事、と言うことでフリーになっているのを堂々と持ち去ってきました!ありがとうございますvv
個人的に長次はおじいちゃんっ子なイメージがあったので…なんだか嬉しいです♪
雷蔵の、長次の腕を初冬と例える一文に「ああ、流石は雷蔵、長次の事良く見てるなぁ」と一人ニヤニヤさせていただきました。まさにその例えとおりだと思いますvv
そして雷蔵に言うために今まで覚えていた中在家さんもありがとうございます。

もとりさま、転載許可ありがとうございますー♪




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