サッと微かな音だけを立てて仙蔵が部屋に戻ってくる、それを宿題しながら横目で見ていた文次郎は彼の表情を見るなりハァと溜息をつく。
仙蔵が明らかに今しがた誰かをからかってきたような、それが面白くて堪らないかのような、今にも笑い出しそうな表情でいたからだ。
「…今度は何をしてきたんだ?」
「おや、いたのか」
「誰に何を仕掛けてきた?」
仙蔵の辛らつな皮肉はいつものことだ、いちいち反応していてはキリがない、文次郎がリアクションを見せなかった事に仙蔵はわざとらしく舌打ちをし、それからクツクツと嗤った。
「いや、伊賀崎は幼い分素直でいいな」
「…留か」
「不破はダメだ、確かに素直だが知識がある、吹き込んでも照れて躊躇い、実行する前にばれてしまうからな」
またもわざとらしいため息をつけたリアクション。おそらく雷蔵では失敗したのだろう。
どうやら仙蔵がからかってきたのは三つ下の後輩伊賀崎孫兵で、それはつまり引いては孫兵と付き合っている文次郎たちの友人である食満留三郎に被害が及ぶ。
留三郎とは入学した頃から目を合わせれば喧嘩になるほど仲が悪く、あまり相性の良くない文次郎ではあったが仙蔵の遊びに引っかかるのは流石に同情する、自分も幾つか身に覚えがあるからだ。
「で?なんと言ったんだ?」
止める事は叶わないがせめて事情は知っておこうと文次郎は孫兵をどうからかったか仙蔵に問いかける。
「いやなに、実はな――」





【月下 のくたぁん】





「食満先パァイ!!」
泣き声の交じった声が夕暮れの長屋に響く、声の持ち主は長くなった影を引きずり目的の部屋を叩いた。
戸口には「食満留三郎」と「善法寺伊作」の立て札、運よく部屋主のどちらかが在室していたらしく部屋の戸はすぐに開いた、外より少し暗い室内から顔を出したのは探していた食満留三郎本人。彼は目の前――より僅かに目線が下の彼の存在に気付いて目を見開く。
「伊賀崎…?」
訊ねてきた孫兵とは学年から委員会まで何もかもが違い基本的には接点がない、筈であった。
それでも彼が留三郎を頼って部屋まで来たのは二人が付き合っているからに他ならない、留三郎が孫兵の逃がした毒虫を難なく捕まえた事が縁で知り合い、つい数週間前から付き合うことになったのだ。
「ジュンコたちを捕まえるの手伝ってください!」
付き合うことになっても普段のやり取りはあまりというか全く変わる事はなくお互いそれに関しては全く気にしていなかった、孫兵は今回も逃げたペットの捕獲に留三郎を頼ってきたのだ。
「ああ、かまわないぞ」
「ありがとうございます!」
孫兵は無理に表情を殺す事無く素直に笑顔を見せる。別に付き合うことになっても付き合う前と変わらなくてもいいと思っていた留三郎だったが、数週間前からこういう笑顔を一瞬でも見せてくれるようになった事は正直嬉しかった、それだけ孫兵が無意識に留三郎に心を開いている証で、彼にはその証だけで充分だったのだ。
留三郎はいつも通りの笑顔で返しそのまま部屋を出る。

「さ、大体の見当はついてるか?」
「はい、多分生物小屋の北の方です」
学園の端にある生物小屋の更に北の方は、学園の敷地と呼べるかどうかさえも怪しいほど、あまり手入れが行き渡っておらず草木が伸び放題の一帯で、まさに学園の生徒にとっても毒虫にとっても格好の逃げ場である、過去にも幾度かそこに逃げ込まれその度に苦労したという記憶しかない。それでも他に毒虫の捕獲に当たった生徒曰く留三郎は「探すのが早い」そうだ。本人としては学園入学前に野山を駆け巡って培った大まかな勘と、驚異的な運によるもので努力などしていないのだから早いと言われても内心複雑な心境であった。
第一留三郎は孫兵のペットたちに大いに嫌われている、それは最初からかはたまた難なく捕獲するようになってからか、とにかく何が気に入らないのか留三郎を見るつぶらな目は揃って冷たく攻撃的だ。
例え見つけたとしても、その嫌われ具合から近づけばその毒にやられてしまうため、実際の所留三郎に出来るのは「発見」までである、その後は近くにいる生物委員か孫兵に捕獲してもらうのが最近の流れだ。
「もう同じ委員の何人かは手伝ってくれてます」
「そうか、夕飯までには見つかると良いな」
「そうですね」と返す孫兵を後ろに生物小屋を通り過ぎて目的の学園北側へ足を踏み入れ、いざ留三郎は生物委員に混ざって捕獲作業を開始した。

◇◆◇

たいだい最初から見当が僅かに外れていたのだ。

それは生き物を捕獲するにはよくある事であって、あの後、日没まで探し留三郎の活躍もあって大半は捕獲できたがまだ数匹程見つけられないでいた、しかし夕食のために――なにもオバちゃんの夕食を我慢してまで躍起になることではない――一旦切り上げ、夕食後は他の生物委員は帰して再び見つけるのが早い留三郎と、毒虫に馴れているため捕獲が得意な孫兵が二人で捜索を始めて、全員捕まえる頃には月が空の真上に掛かり暗闇は学園の生徒の微かな気配でざわめいていた、もう既に生徒達が自主トレを始めている時間帯になってしまっていたのだ。
北側は手入れがされていないためもちろん服が汚れないという事は無い、覆われた草木で日の光が届かず、年中湿った土は僅かに付着しただけでも十分汚れる。
探索のため全身土まみれになった身体を洗おうと留三郎と孫兵は生物小屋からそう離れていない井戸へ移動する、そこは長屋から距離のある場所で加えてまだ生徒達が自主トレを切り上げるには早い時間であるため誰の姿もなかった。

「わー珍しい、貸切ですよ!」
広い学園に井戸の数は少ないわけでは無い、むしろ実習で体が汚れる事を考慮して故意に井戸を増やした所為かかなり多いほうである、しかしそれ以上に井戸を利用する人間が多いのだ、利用者が自分たちだけになることなどそう滅多にあるものではなく、常に誰かしらが一緒にいるのだ。
「この時間じゃ誰も来ないな」
留三郎は辺りを見回しながらついでに気配を探り、だれも自主トレに夢中になってまだ井戸に近づいてこない事を確認すると、頭巾を取り去りぱっぱっと土を払う。しかし湿った土が染み込んでいるのか中々それは落ちてはくれない。それは孫兵も同じだったようで留三郎と同じように三苦八苦している。
「これはもう明日洗濯するしかないな…」
仮に頭巾が綺麗になったとしても今度は忍装束が残っている、流石にこれを綺麗に落とす頃には夜が明けているだろう。
服の泥は落とす事を諦めたが肌についた泥は水に濡れた手ぬぐいで浚えばすぐに落ちる、井戸から綺麗な水をくみ上げざぶりと手ぬぐいを浸し少しきつめに絞り込む、闇色の水が手ぬぐいから滴り落ちた。

留三郎は上着を脱いで手ぬぐいを肌に当てる、乾いた泥は水に混ざってすぐ解け落ちていく。ふと見下ろすと孫兵も真似るように同じく泥を落としていた。
「背中とかもちゃんと落とすんだぞ、じゃないと他にも泥が移って汚れるからな」
「わかってますよ、そんな親みたいに言わないでください」
少々むくれながら孫兵は髷を下ろすと頭を下げてくみ上げていた水を思い切り被る、昼間は蜜のように光る髪に付いた泥を流したのだ。その様子を見て留三郎はあっと声を上げる。
「こら!まだそんなに暑い時期じゃないんだぞ?風邪を引いたらどうするんだ」
「も〜大丈夫ですって!」
「そういう時はもう少し水を含ませた手ぬぐいで叩くようにやるんだ、次から気をつけるんだぞ?」
「わっ!自分でできますってば!」
留三郎の世話焼き加減に呆れた孫兵を他所に、留三郎は自分についた泥を落とす事を放棄し水に濡れた孫兵の髪を固く絞った手ぬぐいでふき取り始める。力任せに乱暴ではなくかと言って水分がふき取れないほど弱くもない、適度な力加減の心地良さに孫兵は思わず目を閉じる、耳に聞こえるのは手ぬぐいと髪の摩擦音と留三郎の呼吸音、それらの一定のリズムがより孫兵をリラックスさせた。
「伊賀崎の髪は柔らかいなぁ」
「そーですか?」
水で冷えた地肌に留三郎の暖かい体温が伝わる、目を瞑ったままなので視覚以外の感覚が鋭くなっているのだ。

「髪の長さは俺とそんなに変わらないのになぁ、俺なんて今にも刺さりそうだよ」
そんなどこぞの食いしん坊じゃあるまいし、そう口にしようとして止めた、そういえば彼と同じ委員会の後輩でもある。
「長さは関係ないですよ」
無難に答えておきながら手の動きが僅かに変わったので眉をひそめる、髪を拭いている、と言うより頭を撫でているようだ。
本当に頭を撫でているのか確かめようと孫兵は目を開く、丁度見上げていたので留三郎とすぐ目が合った。
「…先輩?」
目が合い、その行動に疑問を持たれた孫兵に呼ばれ留三郎は我に帰ったのか急に慌て出す。
「あ…いや、今日は良くがんばって探したな、ってな、おつかれさん」
そう言いながらも撫でる事は止めない、どうやら孫兵の頭を撫でたのは無意識だったらしく、留三郎本人も少なからず驚いているようだった。

孫兵は慌てる留三郎を見ながら無意識でも子ども扱いする彼に無性に苛立ちを覚えた、確かに三つも離れていれば庇護欲が働いて当然なのかもしれない、それは孫兵もペットを大切に思っているのだから十分に理解できる。
だがまだほんの数週間とは言え「恋人」でもあるのだ、恋人である以上子ども扱いなどせず対等に見て欲しいところでもある。例えば彼と同じ立場であれば子ども扱いなどされずに済んだだろうか、と考えながら孫兵ははたと思い出す。
そうだ、今日はいい事を教わったのだった。
「あのっ先輩、ちょっと座ってください」

孫兵は突如何かを思いついたようにぱあと笑顔でまだ体の拭き終えていない留三郎を半ば無理矢理その場に座らせる、断る理由もないがなぜそう言う行動を指定してくるかがわからない留三郎ではあったが素直にいう事を聞き入れてとりあえず大人しくしておく、ふと顔を上げるといつの間にか近づいて回り込んでいた孫兵が正面に立っていた、孫兵は留三郎の前に一旦座ったが目線が合わないのが気に食わないのか困った表情を見せて膝立ちになり次は満足そうに笑う。
「どうしたんだ?」
「えへへー」
まるでなにか隠しているものを披露し脅かそうと企んでいる笑顔である、なにか驚かせたい事でもあるのかと留三郎は眉根を寄せた。孫兵がわざわざ膝立ちになったので珍しくお互いの目線が同じ位置になる、いつもは立っていようが座っていようがその身長差と体格差で目線が合う事はなく常にお互い見上げるか見下ろしているかのどちらかであった。留三郎の正面にある孫兵の琥珀色の目は暗闇でその色を澱ませている。
孫兵はその笑顔を維持したまま留三郎の肩に手を添えてその唇を優しく撫ぜるように留三郎の唇に触れた。
月の下、突然の柔らかさに留三郎は唖然とする。
「え…?」
「え…?」
突然の事に反応が出来ないでいる留三郎とその留三郎の様子を見てきょとんとする孫兵。発した言葉は同じだが含んだ意味合いは全く異なる。

「どっ…どうしたんだ?」
自らに落ち着けと言い聞かせながら平常心を装い留三郎は孫兵に問いかける、今まで確かに付き合っている事にはなっていたが孫兵が自分からこういった行動に出る事はなかった、孫兵の中に元からそういう行動が存在していなかったのだ。
存在しなければ教えればいい、それは言葉にすればとても簡単なことではあるが、元々誰彼構わず人を警戒する孫兵がこういったスキンシップを好むはずがなく、それならば徐々に慣れてもらおうとこの数週間地道に耐えてきたのだ、それをなぜか一瞬にして孫兵から覆された、今までの自分の努力は一体なんだったのかと留三郎は内心、孫兵に気付かれないように肩を落とす。
だがしかし、人とのふれあいを避ける傾向にある孫兵が接吻など自ら思いつくものでは無い、これは明らかに外部から吹き込まれた情報だ。
「どうしたって…これは恋人同士が必ずする事で、こうすると食満先輩は喜ぶんだって聞いて…」
留三郎の予想通り、孫兵のこの行動は何者かに吹き込まれた物だったようだ。そしてその犯人は言われなくとも予想がついた。
「立花先輩が仰ってくれて…」
ああやっぱり、と留三郎は再び肩を落とす。
人への接し方にレパートリーのない孫兵は他者からのアドバイスを良いものであれ悪いものであれ素直に受け入れ疑う事無く実行する、それは彼の警戒心の強さや社会性のなさを思えば良い事ではあるのだが逆手にとり今のようにいたずらを仕掛けてくるものも一部いる、その最たる人物が立花仙蔵その人である。
しかもどうやら孫兵は何かと「こうするといい」などとアドバイスしてくれる仙蔵を悪人では無いと思っているらしく、仙蔵の無差別な悪戯から遠ざけるため単純に「立花のいう事を聞くな」と言うのは憚られた。

他者を警戒するほどならばこういった言動もまず最初に疑って欲しい、留三郎は長く溜息をつく、その様子があまりにも沈んでいたので孫兵は自分の行動に間違いがあったのかと急に不安になった。
「あ、あの…ぼく、なにか間違えました?」
「ああ、いや、すまん違うんだ」
そこまで言って留三郎は果たして何が違うのだろうと言い訳の更なる説明を考える、孫兵は人と接する事を苦手としているだけで決して頭の回転が遅いわけではない、むしろ早い方だ、言い訳がここまでであったのなら気遣わせてしまったと勘違いさせてしまうだろう。
「うーん教えられたから「やろう」と思うんじゃなくてだな、伊賀崎が「そうしたい」と思った時にそれを実行する方がされた相手は嬉しいと思うんだ、もちろん今のが嬉しくないわけじゃない、けれどそれをお前が「そうしたい」と思った時にしてくれればもっと嬉しい、わかるか?」
「はい」
こう言えばむやみやたらと仙蔵の悪戯に引っかかる事無く済むだろうと考えた留三郎は、これで孫兵が理解して少しでも他者からのアドヴァイスを選定するようになればいいと彼の様子を窺う。

一方留三郎に指摘されたとおり、自分からではなく仙蔵に言われて実行した孫兵は彼の話を聞き行動は間違えていなかったが心意気を少々勘違いしていたのだと気付いて「なるほど」となにか解ったかのように頷いた。
「じゃ、これからは僕が口吸いしたい時にすればいいんですね!」
「?!」
確かに留三郎の言った事を違えず実行するとつまりそういう事になる、言いたい事は理解してもらえて安心したがそれでは困るのはまた留三郎本人だ。
「いや時と場合と人の目を考えてだな…」
「でも今は誰もいないですよ?」
強気にもずいっと身を乗り出してくる孫兵は既に臨戦態勢である、焦点を合わせ難いほど顔が目の前にある。
孫兵の言うとおり、確かに誰の気配もない、先程から時折人が近づく気配はあったがこちらが占領している事に気づいてか立ち去ってばかりである。確かに学園に何組かいる恋人同士の一組が井戸に二人きりでいたら逃げたり気を使ったりするのは当たり前の行動だろう。
「そうだな…」
そうして留三郎は残りのほんの僅かな距離を縮めて口付ける。これほどまでに近いのならどちらからしようが変わらないだろうと言う自棄と、孫兵に二度も制されてたまるかと言う意地も少々あった。
「全員捕まえられたお祝いに」
褒めるように笑うと正面の孫兵は月明かりでもはっきりとわかるほど真っ赤になって驚いていた、しかしすぐにその顔を笑顔に変化させる、果たしてそうコロコロと表情を変える子だったろうかと留三郎はふと疑問に思ったがすぐに忘れた、第一そう孫兵を変えたのは留三郎本人であるのだが、彼には全く自覚がないようだ。
「ぼく…嬉しいです!そっか!こんな嬉しい事なんですね?次も頑張って捕まえます!」
「コラコラ、まず逃がさない事が先だろう」
月の下で満面の笑みを浮かべる孫兵に留三郎は困ったようにしていながらも満足そうに微笑んだ。







一言
38700キリリクで「甘々な食満孫」でした。
甘々な食満孫に…なったでしょうか…??「そもそも甘々って何?」から考え始めました、それほど深く考えた事がなかったのです。そんな作品ですがお気に召していただければ幸いです。後半あまりにも照れくさく、夜の魔法を自分めがけて掛けまくりました、流石は効果ばっちりです!
えと、ちゅーって日本語だといろいろ言い方ありますよね?接吻、口付け、キス…その中でも「口吸い」ってのの響きが一番好きで更に言えばエロいと思うのです。
まゆさん、キリリクありがとうございました♪

ちなみに「月下の沢庵」じゃないですよ!!(笑)
「つきしたのくたぁん」と読みます。




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