雨上がりに映るそら 3


 夜が明けた。
 雨はすっかり上がり、濡れた葉に鋭い角度で差し込む朝日が反射して眩しいくらいだ。
 しかし山道は滑るしぬかるむしで歩き辛いことこの上ない。昨日同様、「障害物」である罠がどこに仕掛けられているかは判らない。更に意外と近くに火薬委員会がいることも判明している。
「…昼までに学園に戻る」
 小屋を出てすぐに、長次が言った。障害をクリアしつつ山を2つ越えるには若干厳しい目標だが──。
「「「「はい!」」」」
 4人は元気良く、声を揃えた。


◇◇◇


 遂にゴール地点、学園の門のすぐ横に並べられた机には土井先生が座っていた。5人がボロボロになりながらその前に並ぶと、
「おや、脱落者なしか」
 格好よりも、そのことに驚いたようだった。
 手に入れてきた「合格」カードを長次が手渡す。土井先生はそれを受け取って小さく何度か頷き、顔を上げた。
「全委員会が戻って来たら集計して結果発表になるから楽しみにしてなさい」
 教師陣では一番年下のせいか表情豊かな彼は、にっこりと笑ってみせた。
「今日の授業はこれで終わりになる。丁度時間になるから、昼飯に行くといい」
 そこでゼッケンも回収され、5人は揃って頭を下げた。
 学園の敷地内にも、沢山の水溜りが出来ていた。山の中だけが大雨だったわけでもないらしい。苦戦させられたそれらにも、すっかり晴れた青空が映る様は綺麗だった。

 全校挙げての競争が、やっと終わったという安心感は大きい。安堵の吐息をつき、今度は早く落ち着きたくて仕方のない1年生が先頭になって長屋へ向かって歩き出した時。
「あ、久作」
「はい?」
 後ろから雷蔵に呼ばれて、久作が立ち止まる。釣られてその前を歩く1年生2人の足も止まった。雷蔵は久作に追いつくと、彼の額に触れた。
「え?」
 久作は訳が判らなくてきょとんとする。雷蔵はうーん? と、少し首を傾げて、今度はこつんと額同士をくっ付けた。
「──やっぱりちょっと熱があるんだよね」
 雷蔵は、彼が良くする困り笑顔で告げる。
 いつの間にかきり丸と怪士丸が近くまで戻ってきていて、黙って上級生の遣り取りを見上げていた。
「え…?」
 言われた久作の方が目を丸くした。全く自覚症状がないのだから当然だ。
「2年生は一昨日も校外実技で帰ってくるのが遅かったから、気にはしていたんだけど」
「あ…」
 久作は言葉が続かなかった。一昨日、校外実技があり、学園に戻って来たのがかなり遅かったのは事実で、余り眠れないまま深夜の暗号解読に雪崩れ込んだのだ。
 その時からつい先刻までに起こった出来事が、ぐるぐると久作の頭の中を駆け巡る。
 ──昨夜、猟師小屋で火の番を却下されたのも、筵を下級生だけにくれたのも、度々「寝ろ」と言われたのも、もしかして──? と、良い解釈ばかりが浮かんでしまう。それが全てでは決してなかっただろうが──事実、目的地での暗号解読や、夜の山道を雨の中、走りもした。授業中はあくまで忍を目指す者の1人であり、だが教師から「終わり」を告げられた今は──? 何もかもを否定するには、年長者2人の性格を知り過ぎていた。
「……」
「はい」
 彼らの様子を一歩後ろから見ていた長次が何事かを指示し、雷蔵が頷いた。
「きり丸、怪士丸、着替えたら食堂に行って、全員分の定食確保しておいて。一人分はおばちゃんにお願いして消化の良いものにしてもらって」
「「はーい」」
 雷蔵が長次の言葉を伝えると、心配気だった2人はパッと表情を変えて元気良く答え、長屋へ走って行った。
「じゃあ僕は久作の着替え貰って来ますから、先輩、保健室までお願いします」
 雷蔵は軽く頭を下げてから、やはり駆け出して行った。
「え、大丈夫です、1人で行けますから!」
 滅相もない! と、久作がぶんぶんと手を横に振る。すると長次がポン、と久作の頭に手を置いた。
 一瞬、息を呑んだように体が竦む。長次の手は委員会作業でも良く目にする。掌が大きくて、その掌と丁度良いバランスで長い指は比例するように太く骨張っていて、そして、幾つも傷がある。
 頭巾越しのその手は大きくて──あたたかかった。
「…行くぞ」
 すぐに長次が先に立って歩き出す。
「…はい」
 久作に合わせて少し歩調を落としている長次に、すぐに追いついた。

 ──多分、僕たちは。


◇◇◇


 校医の新野教諭に風邪の初期症状だと診断された。発見が早いから、1日2日大人しくしていれば大事にはならないと言われ、薬の処方を待つ間に雷蔵が着物を持ってやって来た。
「はい、着替え」
「すみませんでした、ありがとうございます」
 彼が手渡してくれる予備の制服を受け取り、頭を下げる。
 見ると雷蔵の制服はまだ汚れたままで、やはり予備を手にしている。彼自身の着替えにさほど時間が掛かるわけでもないのに──少しでも早く、届けてくれようとしたのだろう。
 そんな些細なお人好しとも言える行為が、何ともこそばゆく、素直に嬉しかった。
「能勢君、これね」
「はい」
 新野先生に呼ばれ薬を受け取っている間に、長次と雷蔵は何やら言葉を交わし、そして長次が出て行った。今度は彼が着替えに行くのだろう。
「新野先生すみません、端っこお借りします」
「どうぞ」
 雷蔵が断りを入れると、新野先生は笑顔で許可をくれる。
 保健室の隅っこで2人、雨と泥が乾いてゴワゴワになった制服を脱ぐ。泥は意外と落ち難いから、また洗濯が大変だ…と、久作は脱いだ分を几帳面に畳みながら思う。
 ふと横を見ると、雷蔵が脱いだ着物は畳まれているのか丸まっているのか判断し難いところだ。あんなに迷い癖があって細かそうなのに大雑把って、雷蔵先輩って時々不思議だよなあ…──などと、つい考えてしまう。
 そして、何ともなしに見えてしまうものも。
「…雷蔵先輩、意外と傷…あるんですね」
 久作は呟くように言った。雷蔵の肩口や足に、消えかけているものもあれば、痕になって残っているものまで。黒の短衣で見えない部分にも、恐らくあるのだろう。
「あー、まあ、この学園にいれば怪我とは無縁ではいられないからね」
 雷蔵は、あははと笑った。
 久作自身、幾つか小さな傷はある。それらは何かで失敗したり、攻撃を避け切れずについたもので、正直余り笑って人に話せるものではない。
 傷は、雷蔵の言う通りこれからどうしても増えるだろう。──だが、いつか同じ立場になって、後輩にそう笑えるときがくるのだろうか。
「あれ、久作この辺また筋肉ついたんじゃない?」
 雷蔵が久作の二の腕を指差す。
「え、そうですか?」
「うん」
 言われて、久作は自分の腕をしげしげと見る。自覚できるほどついているとは思えないが、指摘されればやはり嬉しいものだ。間近で長次の体格を見ているから、自然筋トレに力が入るのである。
「いいなあ、僕は腕になかなか筋肉つかなくてさ…」
 雷蔵は眉をハの字に下げながら、自分の腕をもう片手でつんつんと触る。
 久作に比べれば、しっかりと筋肉のついた腕だが、恐らく彼も常から長次を見ているため、まだまだ不満なのだろう。
 その表情が何ともまだ子供っぽく、頼れる上級生の違う一面を見つけてしまった久作は、少し可笑しかった。
「あ、ごめん。体調もっと酷くしたら大変だ」
 そう言いながら、雷蔵は少し乱暴にばさばさと制服を着付ける。久作も上着を着て、袴の帯を結ぶ。頭巾はどうしようか悩んだが、雷蔵もしないようだし、先程土井先生も、今日の授業はこれで終わりと言っていたから、綺麗に畳んで懐に入れた。
「さ、食堂に行こうか。きり丸たちが待ってる」
 雷蔵がぽん、と肩に手を置いた。
 対格差があるから長次よりは少し小さくて、長い指の骨張った形が良く判る、全体的には細長い印象の手だ。けれどやはり──大きな手だな、と思った。
「はい」
 久作は彼を見上げて答えた。

 ──多分、僕たちは。

 授業や教師、同年生からでは学ぶことのできない優しさや強さを、この人たちから教わっていくんだろう。


◇◇◇


 途中で井戸に寄って手や顔を洗い、それから食堂に入ると、まだ人影はまばらだった。奥の少人数用のテーブルに、きり丸と怪士丸が陣取って座っている。
「あ、来た来た」
 怪士丸が2人を見つけ、手を振って教える。
「遅いですよー」
「ごめんごめん」
 テーブルにはきちんと5人分の食事が確保されている。1つだけ、少しメニューが違う膳が久作用だ。少し気恥ずかしいながらも久作は2人に礼を言って、それが置かれている奥の席に座った。
「中在家先輩遅いですね」
 折角の定食が冷めちゃいますよ…ときり丸がボヤく。
「もうすぐ来ると思うよ」
「あ、来た」
 入ってきた長次は、食堂のおばちゃんと何やら話している様子だ。すると、雷蔵がスッと席を立った。
「雷蔵先輩?」
「ちょっと待ってて」
 にっこりと笑う彼は、何やら訳知り顔だ。

 しばらくして、長次が先に、後ろから小さな盆を持った雷蔵が戻って来た。
 長次が久作と向かいの奥の席に座り、雷蔵がその横に着く。
「はい、これ3人で」
 と、雷蔵が久作たちに差し出した盆の上には茶碗が3つ。温かい湯気と共に、生姜の香りが立ち昇っている。
「あ、葛湯だ!」
「あったまるからね」
「え、おばちゃんがくれたんですか?」
 久作が盆ごと受け取り、怪士丸ときり丸へ配る。きり丸が嬉しそうに訊ねた。
「ううん、中在家先輩。あ、生姜はおばちゃんのサービスだけど」
 生姜入れるとよーくあったまるからね〜って言ってくれたんだよ、と雷蔵は笑顔で答えるが、驚いたのは3人だ。
「『雨の中、強行させたから』って」
 雷蔵の同時通訳を聞いても、まだ信じられないといった面持ちである。
「「「あ、ありがとうございます…」」」
 その表情のまま、しかし下級生の揃った声に、長次はこっくりと頷いた。
「あ、でも先輩たちは?」
 葛湯の入った茶碗が3つしかないことに、久作が訊ねる──返ってくる答えの予想はついていたが、やはり聞かずにはいられなかった。
「残念ながら葛粉がそれで終わりだったんだ」
 雷蔵はいつも通りの笑顔で、あっさりと予想通りに言ってくれる。
「でも」
「ああ、気にしなくていいよ、僕も時々先輩にいただいてるんだよ」
 答えながら、雷蔵はテーブルに用意されていた茶器からお茶を2人分用意する。しかし彼の言葉を聞いた瞬間、3人の手がぴたりと止まった。
(…もしかしてこれは…)
(中在家先輩個人の物っていうことは…)
(雷蔵先輩のためにわざわざ買ってある物なんじゃあ…)
 たらたらと背を流れるイヤな汗が自覚できた。
「はい、どうぞ、中在家先輩」
 その3人の目前では、雷蔵が長次にお茶を注いだ茶碗を渡すという、ある意味、象徴的な光景が繰り広げられている。長次は礼の意味でだろう、厳かに頷いた。
「どうしたの?」
 なぜか固まっている後輩たちに、雷蔵が小首を傾げる。
「あ、い、いえ」
「何でもないです」
 怪士丸ときり丸が、大仰にぶんぶんと片手を横に振る。大変わざとらしいものだったが、大雑把さを発揮した雷蔵は気にも留めなかったらしい。
 じーっと茶碗の中を覗き込んでいた久作は、突然、テーブルの茶器からまだ未使用の茶碗を2個取り出した。そして自分の茶碗から、そこへ少しずつ分け入れる。
「え…」
 雷蔵が大きな目を更に見開く。長次は表情を変えなかったが、じっと彼の様子を見ていた。
「あ、これも!」
 察して、怪士丸も自分の分を久作に差し出した。
 一度手に入れた物を離すことが出来ないきり丸は茶碗を両手に握ってしばらく脂汗を垂らしていたが、目をぎゅっと瞑り、えいっと思い切ったように隣の席の怪士丸に中継を頼む。怪士丸が「うん」と頷いて久作に渡すと、彼も心得たもので急いで分け、また怪士丸を中継してきり丸の手に戻した。
 5等分した葛湯は、1人分が随分少なくなってしまったが。
「先輩たちが僕たちより丈夫なのも判りますけど」
 久作が長次へ、怪士丸が雷蔵へと、その茶碗を差し出した。
 きり丸はまだちょっと放心気味だが仕方がない。
「でも雨の中、動いたのは全員なんですし、こういう時は、皆でいただいた方がきっと、もっとおいしいと思います」
 言いたいことの半分も、その言葉には入っていないような気がして、けれど何と言って良いのか判らなくて、久作は自分でも大層もどかしかったが。
「──ありがとう」
 茶碗を両掌で大切そうに包んで、雷蔵がふわりと笑った。
「…貰う」
 続いた長次の言葉は、とても小さかったが3人の耳にしっかりと届いた。だからきっと、本当に言いたかったことも伝わったのだと、信じる。

「「「「「いただきます」」」」」
 5人の声が食堂に響く。
 温かい内にと、全員が葛湯に口をつける。とろりと喉を滑り落ちていくそれは、まだ熱いくらいだった。
 じんわりと、腹の底からあたたかさが広がる。
「おいしいです──」
「うん、うまい」
「おいしいね」
「あったまります」
 長次は何も言わなかったが。
(((あ)))
 3人は少しだけ瞠目した。
 ──何だ、自分たちでもあの笑い方をさせることが出来るんだ、と。
 多分、あたたまったのは体だけでなく。
(((…こんなだからきっと)))
 3人は訝しがられないよう、すぐに目線を逸らした。
(((…次の学期も多分、図書委員に立候補しちゃうんだろうなあ…)))
 諦めに近い、けれど不快では決してない溜め息を、心の中でついた。

 久作は、あっという間に空になった茶碗を見ながら、ふと思う。
 次に町に出掛けた時、長次はきっと葛粉を買うのだろう。下級生に不調を悟らせない雷蔵に彼だけが気づいて飲ませてあげたり、またこんな機会があったら自分たちにも分けてくれるのだろう──。
(…なりたい目標が近くにいてくれるって、いいな…)
 ──なんて絶対に、口に出して伝えたりは出来ないけれど。
 やっぱり後輩の心情は、複雑だった。



2007.10.12






栞さま、リクエストありがとうございました!
そそそれなのに;; 折角の素敵リクを生かしきれず、ただの「図書委員会の話」になってしまったというこの体たらく…肝心の長雷もいちゃつき不足で本当に申し訳ございません…;;; 返品も苦情もいつなりと存分にお申し付けください…;;orz

そして競争の中身はすっ飛ばしててすみません;;
裏タイトル「久作くんの不運な一日」のつもりで書いてました^^; でも途中から凄い良い子になってしまったような…;;




もとりさまのサイトで2700キリバンゲットしまして、キリリク作品、いただいちゃいましたvもちろん長雷です!!
もう、二人の信頼具合とかラヴラヴ具合とかツボが沢山でいただいた直後は興奮のあまり夢じゃないかと何度も疑っては長雷に浸っていましたvv
素敵長雷、ありがとうございますーvv



  
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