薄々気づいていた、確信したのは山から戻ってきたときだった。まだ里の日は若干高い所にあり、夕食には早い時間帯だった。
「さて、どうするか…」
もう手を離さなくてはならないと握っている力を緩めたが、孫兵の方はずっと握ったままだった。
「…孫兵?」
見下ろすと、孫兵ははっと我に返った様子で名残惜しそうにゆるゆると手の力を抜いて離れた。

その様子があまりにも自分がそうしたかったことそのままで。

もしかしたらお互い言えないだけで両思いなのかもしれないと、気づいた。





【泡沫恋心:3】





先ほどから活気のある声が何もない野原に響く、孫兵は目の前の青空教室をじっと見ていた。
今日はどうやら以前言っていた村の子を集めての武術教室の日らしい、朝方からぞろぞろと子供たちだけが集まってきたことには驚いたが留三郎の丁寧な教え方やこの教室の活気を考えれば子供達がこの教室をどれほど楽しみにしているかが良くわかる。
もちろん孫兵は興味がないわけではなかったが、万が一の事があればジュンコが卒倒すると思い遠慮し、こうしてすこし離れた場所から彼らの動きを良く見ていたのだ。

「ひっ…姫様!」
姿を見るより早く声が聞こえる。振り返るとジュンコが慌てた様子で姿を見せた。
「ジュンコ?!どうしたの?」
先に海へ戻ると言っていたジュンコが再び姿を見せた事に孫兵は驚いてかけ寄る。海からここまでの坂を一気に蛇行して来たのだろう、疲れた表情で孫兵を見上げた。
「…なにかあったの?」
それまでどんなに突然の出来事があろうともジュンコは常に冷静だった、おかげで孫兵もなにがあろうとも常に冷静でいられたのだ、そのジュンコがここまで慌てているとなると何かとても重大なことかもしれないと孫兵は一瞬身構える。

「…いえ…」
急いでやってきた割にはジュンコは用件を言う事を渋る。その合間に自主稽古にしたのか留三郎も二人へ近づいてきた。
「ジュンコか、何事かと思ったぞ」
孫兵がいきなりしゃがみこんだので何かあったかと思ったらしい、留三郎も加わった事に更に難色を示したが、迷う暇を置かずにジュンコはうなだれながら呟いた。
「…姫様、あの方が、やってきました…」
「――…」
冷水を浴びたかのように孫兵の表情が凍りつく、完全に心を閉ざした表情だ、ジュンコは幾度か見た事があるがまったく見た事のない留三郎はただ驚いた。すぐにジュンコが見慣れた様子である事から海では良く見せた表情かと推察できたがそれでも陸では一度も見せなかった表情だ、よほど相手になにかあるのだろう。

「それは…例の婚約者か?」
「そうよ、早く姫様を手に入れたくて一ヶ月も先だったのに…もう来たの」
留三郎に答えながらジュンコは空ろな目の孫兵へ話しかける。
「お兄様の八左ヱ門様が姫様を探しておられました…それほど急いでる様子でもなかったのでしばらくは大丈夫だとは思いますが…念のためご報告にきたんです、私も館へ行って姿を確認してまいりました」
「…ありがとう」
「と言う事は、孫兵は海へ戻ったらもう嫁ぐと言うことか?」
相手がもう既に待ち構えているのだからそうなるだろう、ジュンコもこくりとうなづく。
「私はまだ仕事がありますので戻ります、姫様…」

ジュンコは孫兵にわざわざ報せる為に仕事の合間をやってきていたのだ、留三郎はジュンコの優しさに感心する、彼女がいたから孫兵も悪い方向へ進む事無く育ったのだろう。孫兵はジュンコに声をかけられはっと我に帰る、そして彼女を見下ろした。
「なに?」
「…もう一度、笑ってくれませんか?」
他愛のない懇願に留三郎も孫兵も困惑する、しかしジュンコは再び頭を下げた。
「お願いします…」
ジュンコの姿を見て、留三郎は彼女が孫兵の笑顔がもう見れないと言うことを予見している事に気づく、婚約者の話題が出た時点であれほどまで心を塞ぐのだ、簡単だ。しかし孫兵は気づくことなく、ジュンコの頼みだからというだけでうなづき、笑った。
「…報せてくれてありがとうジュンコ」

晴れ渡った空の下、孫兵の笑顔をここまで晴れやかにしたのはいったい誰か。少なくとも自分ではないことは確かだと思いながらジュンコはありがとうございますと口にする。
「…姫様のためですから…」
名残惜しそうに、ジュンコは用件を報せるだけ報せてすぐに海の方へ取って返す、背後の、少し遠くから活気溢れる子供の声が聞こえる中、二人はジュンコの姿が見えなくなるまで見送った。

「そう言えば兄がいるんだな」
「はい、一番年の近い兄しか解りませんが」
「…どう言うことだ?」
ジュンコが言っていたのはその孫兵が唯一知っていると言う年の近い兄なのだろう、だが兄弟なら全員知っているはずではと留三郎は首をかしげる。
「他はみんな胎違いの兄弟で別々に暮らしているので…たくさんいるとは聞いてるんですが僕は知らないんです」
そこらの殿様よりも海の世界は自由らしい。初めて聞く海の世界の事に留三郎は面白そうに笑う。

「なに笑ってるんですか?!」
「いや、お前の世界の事を初めて聞いたから嬉しかったんだよ」
「……」
孫兵も留三郎に言われて気づいたのだろう、最初は困ったようにしていたがすぐに照れたような笑いを浮かべた。
「そう言えば、初めて話しました」
好かれていると確信したはいいものの、それと警戒心とはまた別のようで、こちらが近づけば近づいた分離れてしまう、おそらくいままで人と接するのが苦手であったようだから無意識の防衛本能なのだろうが、そんな孫兵でも近づくことも出来るのだとわかり、婚約者と比べれば僅かでも心を開いてもらっていると知ると妙に嬉しかった。
「また後で話してくれ」
孫兵の頬に触れ、笑う、いつもなら警戒されるのだが今日は少し違うようで抵抗する様子を見せない。
「はい」

あの時、山から戻ってきたときに気づいた予感は意識すればするほどさまざまな事が符合してしまう、今のこの行動も、疑い出したらきりがない。
孫兵は留三郎の推測を知る事なく笑っている、それは婚約者の話題ではかけらも見せなかったものだ。
良かった、いつもどおり笑うようになった、留三郎は内心ホッとしながらほったらかしにしている子供達の元へ戻った。

◇◆◇

「…朝だ…」
孫兵は瞼を開き辺りを確認してポツリと呟く、最後の朝を向かえたのだ。本当にあっという間すぎて実感が湧かないが、確かに一週間は経っているのだ、確か昼前には陸にやってきたのでその頃には二本の足が尾ひれへと戻るのだろう、残された時間はほんの僅かだ。

一週間で見慣れた家の中で、孫兵は改まった態度で留三郎の前に座る。留三郎も孫兵の様子を悟ってか目の前に座りこんだ。
「この一週間、本当にありがとうございました」
本来なら一緒にいる時間すら持つことの出来なかった相手と一緒にいられたことを素直に喜びながら孫兵は留三郎へ頭を下げる。
「いや、俺も楽しかったからな、ありがとう」
正面から言われると照れくさいのか、苦笑しながら留三郎は片手をひらひらと振る、孫兵が陸を見たいという我が儘で押しかけた訳だが、最終的にそう言ってもらえると安心しほっと息を吐く。
「あまり案内出来なくてすまんな」
「いいえ!楽しかったです!」
こんななにもない村より少し遠出をすればもっと面白い物を見せられたんだが、と留三郎は続けるが、孫兵にとってはこうして陸の生活ができただけでも十分なのだ、留三郎の申し訳なさそうな表情を払拭するように首を振って否定する。
「なら、良かったよ」
留三郎がいなければ孫兵は何も解らないまま陸を後にすることだったろう、感謝してもしきれないほどだ。
「…海に戻っても元気でな」
「あなたも、お元気で…」

海に戻る、そうだ、もうじき薬の効力が切れる時間になるのだ、その時間はつまり留三郎と別れる時間。
もう会う事のないのなら、いっそのこと留三郎の返事が怖く、なかなか聞くことの出来なかった一番知りたかった質問を聞いて楽になってしまおうと、どうせこれきりなのだからと言い聞かせて孫兵は口を開いた。
「…どうして僕を助けてくれたんですか?」
「そりゃ溺れたところを助けてもらったからじゃないか、当たり前だ」
あっけに取られながらの留三郎の答えにどうやら質問の意図がすれ違っているようだと気づく、孫兵は慌てて首を横に振った。
「そう言うことじゃなくて…」

孫兵は留三郎の言葉を遮って訂正しようとしたが途端口ごもる。きっかけを作ってしまったのは自分だが、今更になって本当に聞いてもいいのか戸惑ってしまったのだ。
ちらりと留三郎を見ると彼は続きが気になる様子で孫兵を見ている、言い出した責任は言葉にして果たさなくてはならない、孫兵は息をゆっくりと吸った。
「…どうして、あなたはここまでしてくれたんですか…?」
孫兵の言葉に留三郎は目を見開き、じっと蜜色の目を凝視する。

「そ…れは…」

手が伸びる。

温かい頬に触れる。

好きだからだと、喉まで言葉が押し上げる。

出し切れば、楽になれるかもしれない。

「留さん…?」

手が重なる。

流れる時間がゆっくりと感じる。

このまま孫兵が人間になれたら――…

ずっと一緒に暮らせると思ったがすぐにジュンコの忠告が横切った。

『この辺りの海は荒れて生き物は死滅します』

自分の都合で、他人の命を左右してしまうと言う事が重く圧し掛かる。
今まで家族を亡くした自分に優しく接してくれた周りの者への恩を、仇で返すような真似はできないと留三郎はするりと孫兵から離れた。
「…長く一人だったからな」

「……」
それを言うなら孫兵も海ではほとんど一人きりの状態だった、その寂しさは良くわかる。そして一緒に過ごせた時間が楽しかったことも、良くわかる。
たった一週間のようやく訪れた「誰かと暮らす時間」、それまでずっと気にしてた陸や留三郎との別れどころかそれすら終わりを迎えるのだと当たり前の事に気づいた。

「僕が…一緒にいます、いさせてください…!」
口についた途端、涙も自然とこぼれた。
「駄目だ、お前は行くべきところがあるんだろう?約束をしたのなら、破っては駄目だ」
留三郎は首を横に振って孫兵を諭す、元々一方的な約束であったが破ってしまったら海がどうなるか孫兵も薄々わかっているのだろう、言葉が声にならずうつむいて肩を震わせる。
「う…」
「泣くな、笑ってくれ…」
震える肩に手が触れたのを感じて孫兵は顔を上げる、自分と同じく今にも泣き出しそうに辛い表情を浮かべる留三郎に気づく。
「笑っていてくれたら、俺はそれで幸せだから、な?」

これが、愛されると言う事――

それまで他者と接する事を避けていた孫兵にはわからなかったものだ、閃きの様に悟った全ての事象に孫兵の涙は止まる。
「…はい」
世界で一番大切な事を教えてくれた人へ、孫兵は笑いかけた、留三郎が安心したようにうなづいた途端、薬の効力が切れ孫兵の二本の足は元通り、空色の尾ひれとなった、もう孫兵は人間ではなく人魚だ、留三郎と違えた種になってしまった事に孫兵は気づかれないようため息をつく。留三郎も、孫兵が違う世界の種である事を見せつけられ内心落胆する。

「きれいな空色だな」
二度目となる孫兵の尾ひれを留三郎は素直に綺麗だと思った。
嘘のないその言葉を孫兵は心で反芻させる。
「ありがとうございます」
きっとこの空色にこの先一生自信を持つことができる。


二人は、海へ移動した。

ゆっくり名残惜しく移動したため留三郎の小船で海へ出る頃には太陽は天から傾きはじめていた。
水面にはいつの間にかジュンコが姿を見せている、孫兵が戻ってくる頃合だと迎えに来てくれたのだろう、孫兵はジュンコの姿を認めると、借りていた着物を手際良く脱いで舟からするりと海へ泳ぎ出た、久しぶりの海は柔らかく孫兵を迎える。

体を水温に合わせた頃、波間からひょいと肩先から姿を見せた、澄んだ海の底は碧く深いが孫兵の尾ひれは曇天の合間からかすかに見せる青空のようにまぶしかった。その色は誰もが欲しいと思うだろう。
孫兵は留三郎を見上げ、わずかに口の端をあげて見せた。笑顔が好きだと言ってくれた彼には辛い顔など絶対に見せたくはなかった。



「さようなら」



一音一音を大切に発する、それが終わればもう永遠に逢う事はないのだ。
最後の音を鳴らすとその音がやけに辺りに余韻を残した、男は孫兵がそうしたように笑ってうなづいてから口を開いた。





「ああ、さようなら」



















一言

大変お待たせいたしました…まゆさんから43600キリリクで「食満孫で悲恋パロ」でした。
悲恋と言えば人魚姫だので人魚姫です。あとはもう「パロ」といういいわけを傘に好き勝手やっちゃいました!が…まゆさんいかがだったでしょう…??;;無駄に長くて申し訳ないです、一日抜けてますが、その一日はご自由に妄想してくださいタイムです。
ともあれ素敵リクありがとうございました!
下にはオマケがあります。


    











ざざ…と遠くで波が寄せては返す音。海面から体の上半分を空気にさらしジュンコはそれを聞いていた。
「バカな男」
ジュンコは地上に向かいぽつりと呟く。
「私の忠告など無視して、姫様の手をとってもよかったのに…その方が、もしかしたら姫様の幸せになったかもしれないのに」
結局は孫兵よりも海の平穏を取った男だ、ジュンコはちろりちろりと舌を動かして笑う。
「…海の平穏が大事だったのは、私も同じ、か…」
だからこその、男への忠告だったのだから。
ジュンコは振り返り、孫兵がいった海を見つめ、そして空を仰いだ。
そこには孫兵の尾ひれと同じ澄んだ青。

もしここが海底と同じで、あの空から上にまた別の世界があるとしたら。

「――今度こそ姫様が自由にあの男を愛せますよう」

眠るように海面に沈み、とぷんと波間に消えた。



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