初めて見たその蜜色の瞳に心奪われた。
留三郎はもう一度その人魚に逢えないものかと毎日、助けられたあの砂浜へ足しげく通っていたが、心のどこかでもう出会えないこともきちんと理解していた、人魚は滅多に人前に姿を現さないと人づてに聞いていたからだ、留三郎自身も実際会うまで存在すら信じていなかったほどだ。

諦めきれず通い始めて数日後、見覚えのある人魚があの砂浜に倒れていた、夢か別人かと思ったが再び開いた蜜色の目、彼が間違えるはずがない。人魚は留三郎と同じ二本の足を生やしていた。
だがその足の代償は…本人も知らない「人を好きになってはならない事」

彼は自らの想いが報われる事はないと知った。





【泡沫恋心:2】





孫兵は白い刺激で目を覚ました。
瞼を開くとチカチカと目が痛むほどまぶしい、思わず目をこすり起き上がる。
(これが、アサ…)
顔をしかめながら昨夜留三郎が言っていた事を思いだして辺りを見回すと、眠る前まで忍び寄っていた影が今は全く姿を見せない。

昼も夜も薄暗い海の底とはまるで違い、眠っている間にこれほど雰囲気が変わるとは思ってもなかった孫兵はこの変化が不思議でならなかった。隣にはジュンコがとぐろを巻いて孫兵の気配を察したのか同じくゆっくりと目を開く、次の瞬間にはタイミング良くガタガタと留三郎が外から戻り、孫兵とジュンコが起き上がっている事を認めた。
「ああ、おはよう」
「…おはようございます」
昨日、気づいたことだがどうやら基本的な言葉は海も陸も同じらしい、と言うことはこの朝の挨拶も同じと言うことだ、言葉を覚えなければならないと言う手間が省けた分、孫兵はほっとした。


留三郎は朝から近所の――と言っても彼の家は村から離れた場所にあるので実際距離がある――家から孫兵の体格に合う着物を交換してきたそうで、昨日の服とは違った服を着付けてもらう、こちらの方がずっと動きやすかった。そして彼が用意した朝食をジュンコと並んでもそもそと食べはじめた、海では絶対にありえない温かい食事に孫兵は自然と笑顔になる。
「ケマさんは何をしてる人なんですか?」
「普段は魚を釣って町で売ったり、自分が食べる分の野菜を育ててたりだな、たまに子供達に武術を教えたりもする、基本は気ままにその日暮らしだよ」
孫兵の服もその自分で栽培していた野菜と交換したらしい、町では金銭による売買だがこういったその日暮らしの貧しい村ではいまだ物々交換の方が主流だと言う。
昨日着せてもらった彼の兄のものだという着物、だがしかしここには留三郎以外が住んでる様子が見られない、それも不思議そうに聞くと短く「親兄弟は流行り病で死んだ」と答えが返ってきた。孫兵はそれ以上を聞きだすことが出来なかった。

普段仲間に混じる事のない孫兵は影で「無関心」と言われていたが、それは人魚の世界に関心がないのであって見知らぬことに関してならおそらくどの人魚よりも興味津々で知ろうとする。
特にこの陸に上がってからは全てが目新しいため孫兵は他の仲間が見れば別人かと疑われるほど行動的だった。
その証拠に孫兵はその日一日留三郎の日常に常について回り知らない事があれば即座に質問をし、自ら体験しようと頼み込む事もあった。
留三郎もそれを迷惑と思わず孫兵に任せられるものは進んで任せる、その快活さが孫兵をより行動的にさせた要因でもあるだろう、ジュンコはといえば孫兵の首に巻きついた状態で留三郎が仕事を任せる度、過保護に「危ない」と連呼をしており、やはりその度孫兵の「大丈夫」と言う言葉に押されて黙ってしまっていた。


日が暮れる頃には孫兵も大分陸の生活に慣れ、もう誰も孫兵を海から来た人間ならざるものとは思わないだろう。留三郎は夕飯に使う野菜を庭先にある小さな菜園から収穫し、家に戻る道、隣で野菜を盛った籠を両手で抱えている孫兵に声をかける、もちろんこの野菜は孫兵が収穫した物だ。
「今日はいろいろあって疲れただろう、おつかれさん」
「ありがとうございます、陸の暮らしは楽しいですね」
笑顔で返す孫兵に嘘は見えない、本心のようだと解るとその素直さに留三郎もつられて笑う。

「また遊びに来るといい、いつでも歓迎するぞ」
思わず空いた手で孫兵の頭をなでる、やや高い所で一つに結わえた髪はさらさらとさわり心地が良く、止められない衝動に駆られる所をギリギリで抑える。
「それは…おそらく無理です」
一日で陸が気に入った孫兵なら喜ぶだろうと誘うが、そんな留三郎の意に反して孫兵の表情は曇る、それが妙に板についているのが気になった。
板についている、と言う事はその表情を浮かべることに慣れていると言うことだ、まだ詳しく話しを聞いてはいないがおそらく海での生活は孫兵にこんな表情をさせていたのだろう、気になりながらも孫兵が無理だと言う理由が知りたかった。

「どうしてだ?」
「海に戻れば僕はここよりずっと遠く深い海の領域へと嫁ぐ事が決まってます、そこへ行ったらおそらく故郷には帰って来れませんから…」
孫兵が遠い海の主の元へ嫁ぐことはジュンコから事前に知らされていたが、いざ本人の口から聞かされるとそれが真実である事を突きつけられた気分になる。留三郎は孫兵から自分の顔が見えにくくなるよう頭を動かす、幸い身長差があるので顔を茜空に向けるだけで済んだ。
「…そうか」
遠い海であるならば、確かに孫兵の言うとおり容易にここに来る事は出来ないだろう、この一週間が最初で最後なのだ。
孫兵はそれをきちんと理解して今日の一日を過ごしていたのだ、留三郎とは重みが全く違う一日を、だ。
そう思うと急に気が引き締まる、わざわざ危険を冒してまで見知らぬ陸へとやってきた孫兵のために何かをしてあげなくてはいけないと言う気持ちになるのだ。

「明日は町へ行こう、にぎやかで楽しいぞ」
「本当ですか?!」
「姫様を危険な場所につれてかないで頂戴!!」
今日はまだ陸に慣れていない孫兵を気遣い家の付近に行動範囲を絞った、しかしそうノロノロと動いていては時間がないのだ。
(せめて、良い思い出で埋めてあげよう)
自分に出来る事はそれしかないとうすうす感じていた。

◇◆◇

翌日、今日こそは自分で着替えることが出来た孫兵は満足そうに外に出る。その足元にはジュンコが苦々しい表情で尾の先をはたはたと動かしていた。
「…どうしたの?」
「…非常に申し訳ありません、海に仕事が残っておりまして…先に海へ戻ります」
お供であるジュンコであるが傍にいる以外にも仕事がある、いつもならば同じ海底の事、不安はなかったが今回は陸と海とで大分離れてしまう、それを懸念しているのだ。
孫兵はいつもの彼女の心配性が出たかと思いながらジュンコの気持ちを察することなくしゃがんで視線を合わせる。
「大丈夫だよ、ケマさんがいるし」
それが問題なのだ、と言いたいのを堪えて飲み込む、あまりにも嬉しそうにその名前を呼ぶからだ。
遅れて出てきた留三郎が二人の様子に気づいてそろってしゃがみこむ、玄関前で人間が二人、蛇のためにしゃがみこんでいる姿は端から見たら不思議な光景だろう。

「どうしたんだ?」
「ジュンコが先に帰らなくちゃならないそうです」
「…それに姫様について一週間も姿を見せなければ怪しまれるでしょう」
黙って、と言うより話す暇もなく出てきてしまったのだ、ここでジュンコが戻れば、普段から仲間も家族も普段から誰とも接する事無く一人で行動している孫兵もどこかにいるだろう程度に錯覚してくれるだろう。
ジュンコは留三郎を無視して孫兵に残念そうに首をうなだれる。
「うん、ジュンコありがとう」
「いいえ、姫様のためですから」
そう言って町とは正反対に当たる海の方へ向かってジュンコは体を這わせて去っていく、二人はそれを黙って見送った。

「ケマさん、町へ行きましょう!」
孫兵はジュンコが見えなくなる頃に気持ちを町へ行く事に切り替える、本当はジュンコも一緒に、と考えていたがあそこまで考えてくれるのならば仕方がないと諦めた。
留三郎はそんな様子を見て大丈夫そうだと判断しうなづく、ボロ家で貴重品も特にないので閉じまりをせずそのまま出発をした。
町への道のりは思ったほど長くはなく――道々会話が盛り上がり時間の経過を感じなかった所為かもしれないが――家が並びかけた頃、同時に活気を肌で感じた。

海底にも賑やかな市場はあったがそちらには興味がなく、ジュンコや他の人魚に無理矢理連れられ数回行っただけの孫兵は陸の町の活気に圧倒される。
「今日はいつもより少し賑やかだな、迷子にならないように気をつけろ」
「はい」
活気に気圧され孫兵は無意識に留三郎の着物のすそをつかむ、留三郎はその引っ張られる感覚に気づくが本人が自覚していないのを知ると少しだけ笑ってから黙った。

昨日までの一日で大分陸上について覚えたはずの孫兵だったが人間が密集する場所ともなると世界はさらに広がり見知らぬものの方が圧倒的に多い、これほどまでたくさんの人間を、こんなにも近くで見ることなど、確かに想像はしていたがそれ以上の臨場感に自然と気持ちが高揚するのが解った。
留三郎は何事にも興味を示し、目を輝かせる孫兵を見てほっとする、昨日の夕方に見せた無表情にも近い沈んだ表情など、この陸にいる以上はさせてたまるかと思っていたのだ、日の光のような髪を流して笑うその姿を自分が少しでも鮮明に覚えておきたかった下心もある。

孫兵は広い通りに並び立つ市に並ぶ一つ一つをじっくり観察して行く、そのうちの売り手と目が合った、意志の強そうな目に引きこまれそうになる。
「珍しいのか?あげるよ」
気さくに孫兵に笑いかけると売り手は商品である一つを孫兵に差し出す。
「内緒だぞー?」
「あ、ありがとうございます」
孫兵がおそるおそる受け取ると売り手はいっそう笑った、だが孫兵はこの貰ったものがなんだか良くわからない。
ただ風に吹かれてカラカラと回る様子はとても綺麗だった。これはなにか売り手に聞こうと思ったが客が増え声をかけにくくなってしまい諦めて隣にいる留三郎へ声をかける。
「ケマさん、これ貰ったんですけど…」
振り返って、見上げて目を見開く。

留三郎ではない。

彼よりも凶悪な傷のある顔が無表情に孫兵をじっと見下ろす、良く見れば着物の色は似ているが柄が微妙に違うことに気づく。
咄嗟にうつむくが留三郎と間違えられた男の視線が刺さるように痛い。
「すみません、間違えました…」
か細い声でそれだけ呟くとそそくさとその場を人ごみの流れに乗って去る。しばらくしてからおそるおそる振り返るともうその人は見えなくなっていた事に酷く安堵した。
「…迷子…?」

留三郎に注意されたと言うのに、早速はぐれてしまったようだ。
男から逃げるために乗った人の波も簡単に抜け出せるほどラクなものではない、ぎゅうぎゅうと押される中、どこに向かうか、今どこにいるかすらも解らなくなっていた。
まだ子供の孫兵から見れば大半を大人で構成されている人ごみは出口の見えない藻の迷路と同じで心細くなる。
「ケマさぁん」
陸で唯一知っている名前を呼ぶ、それで状況が変わるとも思えなかったが藁にもすがる思いで小さく呟き続けた。
先ほど貰ったものをぎゅうと握り締め目をつぶる、その所為ですぐ横から伸びてきた手に気づくのが僅かに遅れた、その手が孫兵の肩をつかみ、それと同時に人ごみの合間から声が聞こえてきた。
「孫兵!」
聞き慣れた留三郎の声だ、肩をつかんでいるその手も彼のもので孫兵はその手を必死につかむ。留三郎は力強く孫兵を引っ張るとあれほど孫兵が出るに出られなかった人ごみをあっさりと抜け出した。
人のざわめきを背中に見上げると間違いなく留三郎が孫兵を見下ろしていた。その憔悴した表情から彼が慌てていた事を容易に察する事が出来る。
「すまん、知り合いに声をかけられて目を離してしまった」
留三郎の声を聞き孫兵はゆるゆると不安を溶かしていくようにほぅと息をついた。
「ああ、こんな事になるなら俺からも手を繋いでおけば良かったな、すまない」
心の底から後悔している留三郎に孫兵は首を横に振って返事をする、孫兵も、留三郎にこんな表情をしてほしくないのだ。
「いえ!僕も注意されたのに…すみません」
「……」
これ以上はただの謝り合戦になってしまうと思い留三郎は口をつぐむ、謝る以外に何か話題はないものかと考えあぐね視線をさまよわせた。

そしてようやく孫兵の手の中にかざぐるまがある事に気づく、はぐれる直前まで持っていなかったものだ。
「孫兵、それは――…」
「あ、はぐれる直前に気さくな人に貰ったんです、これは何ですか?」
カラカラとかざぐるまを回しながら孫兵は首をかしげる。ようやく聞きたかった事が聞けるのだ、気持ちが自然と高揚する。
留三郎はこれも知らなかったのかと思いながら孫兵へ丁寧に説明を始める。
「それはかざぐるまって言って、そうして風を送ってこの上についてる車輪を回すんだ」
「かざぐるま…」
孫兵はふぅと息を吹きかける、赤い紙を貼った車輪がカラカラと乾いた音を立てて回った。
「おもしろいですね」
「海にはないだろう?」
海に風はないのだから、留三郎がそう続ける間もなく孫兵は「海底に風はありませんから」と残念そうに呟いた。その表情を見て留三郎ははたと思いつき孫兵を連れて町の、賑やかな通りへ背を向ける。孫兵は一気に喧騒が視界から消え、代わりに人通りのない狭い路地が見えた事に少なからず戸惑った。
「今日はもう帰ろうか」
「え?でも用事は…」
何をする暇もなく突然はぐれてしまった所為でまだ何の用事も済ませていないはずだ、孫兵が戸惑っていると留三郎はかまわず「いいんだ」と笑って続けた。そもそも買いものなどなく、単に孫兵に人間があつまる場所を見せたかっただけなのだから目的は当に済んでしまっているのだ。
「家の方が風の通りがいいからかざぐるまは良く回るぞ」
確かに言って悪い気もするが留三郎の家の周りには民家が一軒もない、村から離れた場所にぽつんと寂しく建って海風を一身に受けている、あそこであるならこのかざぐるまもさぞよく回ることだろう。
留三郎は納得してうなづく孫兵の手を掴んで一気に狭い路地を通り抜けてあっという間に町を背にしてしまう。孫兵は留三郎に手を握られ自分の鼓動が早く波打ち始めた事に気づく、緊張しているのだ。留三郎からしてみれば次ははぐれないようにとただの防止策として手を繋いだだけなのだろう、孫兵は彼に顔色をうかがわれない様誤魔化して後ろを振り返る、いままでそこにいたのが信じられないくらい、賑やかだった場所はもう既に遠くにあった。
「――…」
はぐれる心配のない田んぼ道を歩くようになっても繋がれた手が解ける事はなかった、おそらく帰宅するまでこのままだろう、孫兵は離して欲しいとは微塵も思わなかった。先ほどまでの緊張がいつの間にか慣れて思わず笑ってしまう。ふと見下ろした留三郎もそんな様子の孫兵につられて笑った。

はたしてあの人は、この人のように僕を扱ってくれるだろうか?
握られた手の熱を感じながらぼんやりと考えるがすぐにあの主は孫兵の、珍しい空色の尾ひれがいいのだと、あれを我が物として見せびらかせたいだけなのだと言い聞かせる、留三郎のように孫兵を扱ってくれる可能性はない。
比較すればするほど、孫兵の胸は苦しくなる一方だった。


帰宅し、外でかざぐるまや留三郎が家から持ち出した独楽や竹とんぼでも一通り遊び、笑いあってくたくたになって家の中へ引き上げる。
疲れからか今にも眠りだしそうな孫兵の様子に注意しながら留三郎は簡単な雑炊を作り二人でそれを食べた。

そう、孫兵が来てからずっと孫兵と共に、それこそジュンコに負けず劣らず付きっきりで行動しているのだ。

留三郎にとってそれは全く苦ではない、長い時間を一人で過ごしてきた自分と共有できる時間を持ってくれる相手が傍にいるのが純粋に嬉しかったのだ。
孫兵に出会ってからこっち、陸の話しをしながら笑う、笑うと言うことも日常では愛想として使ってはいたがこれほどまで本心から溢れるものだとは孫兵に出会ってから気づいた。
「…ケマさん?」
慣れない箸を使いながら拙く食事する孫兵の姿を見て手を止めていたらしい、孫兵に呼ばれて留三郎ははっと我にかえる、そうして一つ、我が儘を言いたくなった。
「名字で呼ばなくてもいい、気楽に留って呼んでくれ」
どうも最初から名字で呼ばれる事が滅多にない所為かムズ痒かったのだ、孫兵が躊躇っていると「武術を教えてる村の子もそう呼ぶ」と付け加えた、それを聞くといくらか安堵したように孫兵はほっとしながら口を開いた。
「それじゃあ、留さんって呼びます」
それは心なしか孫兵も少し楽になったように見えた。
「ああ、ありがとう」

ああ、心地よい

「このまま――」
傍にいてほしいと口を滑らせそうになる、思わず気が緩んでしまったようだ。とっさに口をつぐんだが途中までのその言葉は中途半端に中に浮かんだ。
孫兵もそれを不思議に思ったのだろう、続きを聞きたそうに箸を止めて首をかしげて留三郎をじっと見ている、その澄んだ目に嘘をつくのかと一瞬罪悪感に駆られるが仕方がないと諦め苦笑する。
「ああ、いや、このまま眠りたい位眠いなって言おうと思っただけだよ」
留三郎は慌てて取り繕うが取り繕ってから嘘である事は明らかである、本当の事を話せと急きたてられるかと覚悟するが孫兵はきょとんとした顔でうなづいた。
「そうですね、僕もちょっと疲れました」
どうやら信じがたい事に留三郎の言葉を丸のみして信じ込んだようだ。流石にこれには驚いてしまう、海でもさぞ騙されたのではないかと不安になった。

「…唐突だが、孫兵は海では仲間と楽しく過ごしているのか?」
純粋な興味と話を逸らしたいという魂胆で話題を変えると孫兵は留三郎と視線を合わせずに答えた。
「…いえ、僕がこの近海の主の子供と言うのもあってどうしても馴染めなくて…」
「そうだったのか、不躾な質問だったな、すまない」
嫌な方向になってしまったな、と質問した留三郎自身も反省し視線を落とす、自分の分の、当に冷めた雑炊が見えた。
「いいえ、僕もあの場所に正直興味ありませんから」
さっぱりとそれだけを答えて孫兵は食事を終わらせ両手を合わせて「ごちそうさま」と唱える。

「…陸は…楽しんでくれてるか?」
留三郎の呟きに孫兵は片付けの手を止めて顔を上げる、目の前には真剣な眼差しの留三郎が見つめていた。
「もちろんです」
知らない、楽しいものがたくさんで覚えきれず、それになにより留三郎がいる、それだけで孫兵はあの暗い海底よりずっと陸の事が好きになれた。
留三郎は孫兵の笑顔の返答を聞きほっとする、本当は自分の知らない孫兵がいた海の世界に少なからず興味はあったが、肝心の孫兵が沈んだ表情を見せるのでそれ以上追求しないことに決めた。

◇◆◇

陸とは打って変わって薄暗い海底、暗さに目が慣れず目を細めながらジュンコは泳いでいた。
「ジュンコか?」
後ろから声をかけられ、振り返ろうとしたが声の主はジュンコをあっという間に追い抜いて彼女と並んだ。
孫兵の空色よりずっと深い、海底のような紺色の尾ひれが視界の端に見えた。
「八左ヱ門様」
「孫兵は?一緒じゃないなんて珍しいじゃないか」
「…私は他にも仕事がありますので…おそらくどこかお一人で散策なさってると思います」
咄嗟の嘘に孫兵の兄である八左ヱ門は疑う事無くうなづく、この二人は疑い事を知らないくらい素直なところまでそっくりだなとジュンコはふと考えた。
「そうかぁ、もうそろそろ出発だもんな、あいつもあいつなりに寂しいのか…」
しかも兄に至っては良い方向へ考えるような思考の持ち主だ、どちらかと言えば悪い方へ考えてしまう孫兵も多少見習って欲しい。
「じゃ見つけたら家に戻るよう伝えてくれないか?婚約者が急きすぎてもう迎えにきた」
「もう――…?!」
本来なら輿入れはまだ一ヶ月も先だ、ジュンコはなぜだか陸で見た孫兵のあの笑顔を思いだした。まるで永遠に忘れぬよう心に刻み込むように。

◇◆◇

孫兵は山の中で届くはずのない木の天辺を仰ぎ見ていた、海底ならばあの高さまで泳いで簡単にたどり着くことが出来るが陸では鳥のような羽がないのでたどり着く事は出来ない。たどり着いたからと言って意味はないのだが届かない事が妙に不便に感じた。
昨日の賑やかな町中と違って静かな山の中に今日は来ている。陸に上がっても海底と同じく栄えているところもあれば寂れているところもあると言う事を知らされた、潮の流れで泳ぎにくい所もあればこの山のように地面の起伏で歩きにくいところも良く似ている。ただいつも必ず耳にする水が動く音が聞こえない、代わりに聞こえるのは木々を縫って駆け抜ける風の音と鳥の鳴き声だ。

「いろんな木があるんですね…」
すらりと天を突くほど高いのもあれば孫兵や留三郎と同じ高さくらいのずんぐりしたものまできりがない、留三郎も木の種類までは把握し切れてないのか先ほどから解るものだけを教えていた。
「ああ、それは桜と言うんだ」
「これ、ですか…?」
青々とした緑の茂る豊かな木、孫兵は転ばないようにそれに手をついていた。
「もう終わってしまったが寒い時期が終わった頃桃色の花を一面に咲かせるんだ」
「この木全部が花になるんですか?」
それまで見かけた花はどれも葉と一緒になって咲いていた、だがこの桜と言うものは全てが花に覆われるらしい。
「ああ、ここに咲き残りがあるな…」

驚いてる孫兵を尻目に留三郎は少し高い位置にある枝を引き寄せてなにかを手にする。孫兵がそれに気づくと握っていたこぶしを広げて手のひらを見せた。
一輪だけの薄桃の小さな花。
留三郎はこれが桜だと説明し孫兵に手渡す。
「これが桜…」
この小さい花が大量にこの木を覆う姿を想像しようとしたが想像しきれない、どうしたらこんな小さな花がこれほど大きな木を包むことが出来るのか、孫兵は首を捻る。
「一度にたくさん咲かせるんだ、こんな小さくてもたくさんあればこの木を全て覆うことが出来てしまうんだから面白いだろう?」
「はい…」
花に夢中になりながらも留三郎の話もきちんと聞いて返事をする。

「花びらが一枚一枚づつ散って行くんだが、まるで雪みたいでな…あ、雪と言うのは寒い時期に降るもので…ああしまった、見せたい物がたくさんありすぎるな」
そこまで言うと留三郎は困ったように笑う。雪と言うのも桜の咲く風景と言うのも知らないが留三郎がここまで嬉々として喋るのならそれはきっと素晴らしいものなのだろう。
それだけではない、他にも、きっと素晴らしいものと言うものはたくさんあるに違いない、それを見るためには最低一年近くここにいた方がいいのだろう。
「一年くらいいられたら見せてあげられるんだがな」
「――…!」
丁度思っていた事を留三郎に指摘されて驚きながらうなづく、しかし一年もこちらにいればきっと帰りたいと思わなくなっていただろう、そう考えると一週間で丁度良かったのかもしれない。

「もう日が暮れ始める、危ないから戻ろうか」
暗くなった山は危険だ、山どころか陸にすら不慣れな孫兵ならなおの事だ、留三郎は迷う事無く手を差し出す。
「下りは危険だから手を繋ぐぞ」
「…はい」
広い手にまた手を重ねる、あっという間に握りこまれて孫兵の手は見えなくなった。きちんと力加減をしてくれてるのか痛くもなくするりと解けるほどゆるくもない。

歩き始めてすぐに留三郎が急な斜面は避け、孫兵のためになるべくなだらかな道を選んで歩くのに気づく、思い返せばこの数日、留三郎は孫兵に歩調を合わせているのだからすぐに解ってしまう。
どうしてここまで自分に合わせてくれるのか?孫兵は怖くて問いただしたくともできなかった。

「一年くらい…許してくれたって…」
「?何か言ったか?」
口の中での呟きが僅かに洩れていた様で留三郎に見下ろされる、孫兵が慌てて首を横に振ると「そうか」とうなづいてまた先を見つめた。



一年でも短い、この人とずっと一緒にいられたら良いのに




けれどもうすぐこの足は尾ひれへ戻り、二度と歩ける事はない。








    


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